なぜFF6のジャケットにはティナが描かれているのか?

20220519


FF6は実にヘンテコなゲームだ。

既存作品にはあった、魔法と剣とクリスタル、一本道のストーリー、出会いと死別というような諸々の要素は、このゲームにおいてはあまり重要視されていない。
いきなり水中を泳がされたり、言葉を選びながら会食させられたり、オペラの舞台に立ったかと思えばその舞台を打ち壊したり。
飛空艇には服を脱がせるおじさん、カレーライスやハヤシライスを食べたいと寝言をいう兵士、いきなり十何匹ものモーグリを操ったり、絶望して崖から身を投げたりと、全然まとめきれてないのがこのゲームである。

スーパーファミコン本体の発売日は1990年11月で、プレイステーションの発売日は1994年12月。
スーパーファミコンの発売されたゲームタイトルの数は、94年および95年がピークで、それ以降は徐々に減っていく。
スーファミの全盛期だった時代は実は4年間くらいしかない。スクウェアは、そのわずか4年間に、FFだけで3本のタイトルを出している。

ご存じの通り、ゲームは、このハードウェアに応じた性能による表現力の限界がある。ファミコンでマリオは表現できるが、デビルメイクライは表現できない(当たり前だ)。
FF4やFF5は、スーファミの表現力に綺麗に収まった。そして、FF6は「それを超えようとしちゃった」ゲームなのである。FF6がヘンテコで、かつ、とても魅力的な理由はそこにある。
おそらくゲームを出す毎に、開発陣の「表現したいこと」が、どんどん緻密かつ複雑になっていった結果、いつしかハードウェアの「表現できること」を上回ってしまったのだろう。そしてその時に、とても不思議なものができてしまう。

こういうヤツは、他にもいくつかいる。たとえばドラクエ4とドラクエ6。
ドラクエ4の発売日は90年2月。章立てのストーリー、カジノの登場、AIによる行動(クリフト=ザラキ)、人間味のあるラスボス(ひきあげじゃあ!)…など、ファミコンでそこまでやる?というボリュームだった。
ドラクエ6の発売日は、FF6より1年半も遅れた95年12月。これも、夢の世界と現実の世界を行ったり来たりするヘンテコなストーリーで、その不思議を理解する過程の戸惑いを何度も味わったものだ。
(ドラクエ5は名作であるが、ヘンテコではないので、ここでは触れない)
94年発売のスーパーファミコンソフトはその傾向が強い。(MOTHER2とライブアライブの発売日って6日しか違わないのか…すごいな…)

そんなヘンテコ群雄割拠のなかで、頭ひとつ抜いてヘンテコなのがFF6なわけだ。
なんだよギャンブラーって。
FF史上、その職業は彼一人だけである。しかもストーリー後半は必須キャラである。冷静に考えるとおかしい。だって味方パーティーにカイジがいたら君どう思うね?

まっことヘンテコなのだと十分に伝わったところで、そろそろFF6について、一番伝えたかった話を書く。

『なぜFF6のジャケットにはティナが描かれているのか?』という話である。

パッと思いつく「ティナは主人公だからでしょ」という解答は、僕は正しい解答ではないと思っている。
ティナは正確には主人公ではなく、主人公の一人である。このゲームのプレイヤーキャラクターは全員が主人公である。ティナは重要なキャラクターだが、シナリオによってはいないこともあるし、ストーリー後半では必須キャラクターですらなくなる。
しかるに主人公の一人に過ぎないティナが、ジャケット(もっというとタイトルロゴ)に描かれているのは、主人公だからとは別の理由があるからということになる。

このゲームが、ティナが魔導アーマーに乗っているシーンから始まるから?
それも少し違う気がする。このゲームは全員が主人公なのだから、誰から物語が始まっても実は問題ないのである。
ロックがどこかの洞窟からアイテムをハントするシーンから始めても、群像劇であるなら別に変ではない。
特定のキャラで特徴的なシーンを描いて、それをジャケットに使えばいいのである。

ティナが描かれた理由と、話がティナから始まる理由は同じで、そこにはバナンというキャラクターが関わってくると考えている。
バナンとは、ストーリー前半で登場する、反帝国のレジスタンスのリーダーのじじいである。

レジスタンスのもとに連れてこられたティナに向けて、バナンは次のように言う。
『おぬしは世界に残された最後の一粒。「希望」という名の一粒の光じゃ。』
FF6内で一番の核となるセリフは、このセリフである。

FF6は希望の物語である。

FF6は、敵は、最初から明確な悪として厳然と描かれているのに対して、味方は、正義を背負っている訳ではない。ストーリーの中でたまたま出会ったキャラクターたちが最後に一致団結したのである。
彼らは最終的に何によって統べられたのか。それは、この「希望」である。

ストーリー前半では単なるじじいの戯言に過ぎなかった「希望」は、ストーリー後半になると、あらゆる場面で顔を出すようになる。

世界崩壊後、孤島で目覚めたセリスは、彼女を介抱していたシドから、島の人たちが次々に希望を失って崖から身を投げたことを知る。そしてシドが死んだ時、自身も希望を失って崖から飛び込む。海岸に打ち上げられたとき、近寄ってきた鳥に、自分のことを「何の希望もない私」と表現する。そして、鳥の身体に巻きつけられたバンダナに希望を見出して、島を筏で去る。
このシーンからして、希望という単語はすでに3回も出てくる。

その後、彼女は随所で仲間たちと再会する。
再会したとき、仲間たちもまた、それぞれの理由で希望を見失っている。
彼らがその理由と真摯に向き合い、希望を再度見出すことができたとき、彼らはパーティに復帰する。パーティ復帰後に向き合う人もいる(カイエンとか)。
ストーリー後半はほぼ、彼らが喪失から蘇る過程が描かれる。

プレイヤーキャラクターのうち、別のキャラクターに希望を見出したのは5人いる。セリス、ロック、マッシュ、ストラゴス、リルム。
このうち、一貫して相手に希望を見出していたのはセリスだけである。ロックは最初はレイチェルのケツしか見てない。マッシュは「強くなって、兄を支えること」が希望であり、最初はむしろ強くなることを望んでいた。リルムは最初は絵を描くことに夢中だった。じじいは心神喪失してる。
セリスがストーリー後半の最初のキャラクターに選ばれた理由はここにあると思っている。セリスが唯一、最初から、仲間を求めて動き回ることができるのだ。

最後、瓦礫の塔(瓦礫とは破壊された希望の集まりである)で、キャラクターたちはケフカに問われる。「お前は(希望を)見つけたのか?」と。そして、彼らは「見つけた!」と堂々と答える。
余談になるが、ただ一人、自分の希望を言い切ることができなかったキャラクターがいる。それがシャドウだ。(彼は「友と……家族と……」と答えている)
なぜ彼は言い切ることができなかったのか。それは、彼だけが、喪失から回復できず、はっきりとした希望を見出せてなかったからである。
彼が最後に、瓦礫の塔で死ななければならなかった理由もそこにある。
他のみなが戻っていく蘇る緑の世界ではなく、希望のない瓦礫の世界にしか、彼の場所はなかったのだ。そこがすぐに滅びるとしても。(けっこう残酷な話ではある)

ここまで書いて、さて最初の問いに戻る。『なぜFF6のジャケットにはティナが描かれているのか?』という問いである。

この答えは「FF6は希望の物語であって、ティナはその象徴だから」になる。バナンが高らかに宣言したことによって、彼女はこの物語の象徴になった。だからこそジャケットに彼女が描かれたのである。
繰り返すが、決して主人公だから、ではない。

初めてFF6をプレイしてから、今日までの解釈の集大成をここに書きました。
みなさんもぜひ「自分にとってこのゲームとは何か」ということを考えるときっと楽しいと思います。

シャドウについての余談。
FF6で続編もしくはサイドストーリーができるのなら、主人公は彼になるんじゃないかと思っている。彼だけバッドエンドで終わってて、描かれてない事もたくさんある気がするので。
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